LOGIN夜半。王宮が眠りについたころ、私はローブを羽織り、音を殺して城を抜け出した。
街へ出ると冷たい夜気が肌を刺す。人気がないから石畳を踏む足音さえ、やけに大きく感じる。
向かう先は、住宅区の入口にある教会。かつて私が育った孤児院でもある。 教会は夜でも城下町に住む民のために入口の扉は開いている。中へ入ると、礼拝堂や2階につながる扉はカギが掛けられていたが、懺悔室には煌々と明かりが灯されていた。 懐かしい匂いがした。古びた木の匂いだ。王宮での生活にももう慣れたが、ここへ来るとやっぱり肩の力が抜ける。 私は懺悔室の扉を押し、静かに中へ入った。ランプと一人用の木椅子、そして格子状の窓しかない狭い部屋。 使い古された椅子に腰を下ろし、私は目を閉じた。フリーダの言うことが本当なら、ここで神と取引ができる。教会は神と通ずる場所だからだ。
私はかつて神父様から習ったよう夜半。王宮が眠りについたころ、私はローブを羽織り、音を殺して城を抜け出した。 街へ出ると冷たい夜気が肌を刺す。人気がないから石畳を踏む足音さえ、やけに大きく感じる。 向かう先は、住宅区の入口にある教会。かつて私が育った孤児院でもある。 教会は夜でも城下町に住む民のために入口の扉は開いている。中へ入ると、礼拝堂や2階につながる扉はカギが掛けられていたが、懺悔室には煌々と明かりが灯されていた。 懐かしい匂いがした。古びた木の匂いだ。王宮での生活にももう慣れたが、ここへ来るとやっぱり肩の力が抜ける。 私は懺悔室の扉を押し、静かに中へ入った。ランプと一人用の木椅子、そして格子状の窓しかない狭い部屋。 使い古された椅子に腰を下ろし、私は目を閉じた。 フリーダの言うことが本当なら、ここで神と取引ができる。教会は神と通ずる場所だからだ。 私はかつて神父様から習ったように、両手を固く組むと目を閉じた。「こんな時間に、どうしたのですか?」 格子の向こうの扉が開き、穏やかな声が降ってくる。「……神父様」 そこには、私を育ててくれたクレメンス神父の気配があった。直接見ることはできないが、声の調子はいささかも変わっていない。「久しぶりですね、ティナ。念願かなって秘書官になったとか。この間のフォヴォラの襲撃事件。あなたの指示で誰も死者が出なかったと聞いていますよ」「……いえ。私は別に。それに、肝心の咎人は捕まえることが叶いませんでした」「そうですか。……咎人、神の反逆者たちですね」 私は唇を噛む。「ええ……」「ティナ。何か、抱えているのでしょう。わざわざ人目を忍ん
部屋が夕闇に包まれる。王子の命令通りベッドで横になっていた私は、控えめなノックの音に体を起こした。「入るわよ」 返事を待たずに扉が開き、赤い瞳が覗く。フリーダだ。「起きてるみたいね」「……ああ、まだ寝る時間でもない。王子の特訓は?」 私は体を起こしたまま、視線を落とした。胸の奥に残るざわつきはまだ消えていない。 フリーダはベッドの脇まで歩いてくると、椅子を引き寄せてどかりと腰を下ろした。「中止よ。王子ったら、優秀な秘書官が気絶しただけで全然集中できなくてダメ」「なっ……すまない。私のせいだな」 手を握り締める。完全に空回りだ。王子まで心配させて。「いいわよ。今日は魔法の発動ができただけでも上出来。……で? 調子は?」 頭を横に振ると、視線を上げる。「問題ない。少し気を失っただけだ」「そういうのを問題ありって言うのよ」 呆れたように肩をすくめるフリーダは、そのままじっと私を見つめる。 「ティナ。あんたの力の話。方法を一つ思いついたわ。誰でもできることじゃないけど、試してみる価値はある」「! 教えてくれ! 王子を守るためならなんでもする!」 毛布を払おうとした私を止めると、フリーダは息を吐いた。「落ち着きなさい。その前に確認することがあるわ」 フリーダが真剣なまなざしで私の瞳をのぞく。「なんであんた、紋章も魔法も使えないの?」 心臓が跳ねた。「そ、それは……」「剣の腕はすごいわ。けど、紋章の力にごり押しされたら必ずあんたは負ける」 フリーダの赤い瞳が観察するように私を見る。今までと違ってごまかしはきかないかもしれない。「アーダンのおっさんみたいに魔法が使えなくても、紋章でカバーしようとする人は多い。でも、私の見立てでは、あんたはそもそも紋章が宿せない。違う?」 確信めいた質問だ。実際、それは事実だった。私は剣を選んでここまできたわけじゃない。剣しか使えないからこの道を選ぶしかなかった。「死に戻りのことと言い。あんたは普通の人間とどこか違う。まだ隠していることはない?」 ある。私が紋章を宿せない理由。それは神に祝福されていないから。 フリーダは足を組むと、その上で頬杖をついた。「あんたも知っている通り、すべての紋章は【9つの神の紋章】から成り立つ。王子が宿す太陽の紋章もその一つ。本来なら、程度の差はあれど人
そうだろう。失われたはずのものはもう夢の世界にしか存在しない。 ふと、幼子の声がして顔を向ければ見知った顔が2人歩いていた。咄嗟に牛と牛の間に隠れる。 いや、何をやってる。夢なのだから隠れる必要はないはずだ。『この牛のミルクが僕たちの宮殿にも届くの?』『うん、そうだって。お父さんとお母さんが言ってた。うちのミルクとうちの茶葉で作ったミルクティーが一番美味しいんだって。私もいつか大きくなったら、ミルクと茶葉を持っていってマリクに紅茶淹れてあげるね』 これは、私とマリクだ。幼い頃の王子と私が一緒に散歩している。しかも手をつないで。 あのとき、私が王子と過ごした期間はほんの数日だった。辺境の視察に同行していた王子が、私に話しかけてくれたことがきっかけで始まったやり取りだった。 この数日間は今でも覚えている。 王子と私は日が暮れるまで外で過ごし、他愛もないことを話していた。 私は悟られまいとしていたが、この後あることを告白しようとしていたから内心は穏やかじゃなかった。 このときに王子と出会って──私の運命は変わったんだ。 場面は変わり、私は一人自分の部屋の中にいた。強い風が壁を打ちつける中、微笑みながら王子からもらった絵本を読んでいる。……この先は、ダメだ。見たくない。『あれ?』 階下から物音がする。私は、もしかして王子が戻ってきたのかと思い、扉を開けていた。ゆっくりとした足取りで居間へと降りていく。やめろ、ダメだ。やめろやめろやめろやめろ!『ヒッ……!』 幼い私は見た。 ランプの灯りが照らすのは葡萄《ぶどう》酒のような血溜まり。 見知らぬ男がお父さんの胸にナイフを突き立てていた。耳をつんざくような悲鳴が上がる。私の悲鳴──。 助けられなかった。何もできなかった。あのときも、そして今も……。 王子、マリク王子。私は──。*「……ティナ」 誰かが私を呼ぶ声で、意識が急速に浮かび上がる。「ティナ、目を開けてくれ」 重いまぶたを持ち上げると、最初に目に飛び込んできたのは青い瞳だった。「王子……?」 ぼやけた視界の向こう、マリク王子が心配そうに私を覗き込んでいた。 額にかかる髪が少し乱れている。あんなに整っていた人が、こんな顔をするなんて。「よかった。目が覚めた」「どうして、ここに……」「どうしてって、君が訓練場で倒れ
午後、私は懐かしの王宮の訓練場にいた。 中庭の静けさとは違い、そこでは金属音や兵士たちの掛け声が絶えず響いている。 乾いた土の匂い、汗の匂い、剣を振るうたびに巻き上がる砂。壁際では若い兵が木剣で打ち込みの練習をし、奥では近衛たちが本格的な組み手をしていた。「おっ、秘書官殿が訓練場とは珍しいな」 低い声に振り向くと、予想通りアーダンが腕を組んで立っていた。王の近衛兵長になったとはいえ、アーダンがよくここにいるという噂は本当だったようだ。「兵たちが心配なのか?」 私の質問にアーダンは、大声で笑う。「ああ、心配だな。いつまで経ってもこいつらは世話を焼かせる」「ふふっ、ならお願いがある。私と一戦交えてくれ」 アーダンの目が細まる。「……本気か?」「ああ」 迷いなく答えると、アーダンは私の顔をじっと見つめた。「事情があるように見えるが」「聞かないでくれ」「そうか」 アーダンはそれ以上追及しなかった。新兵に鉄槍を二本持ってくるよう指示を出す。「構えろ。ティナの得物は腰のそれでいいのか?」「もちろん。私の剣は、これしかない」 アーダンが二本の鉄槍を手にし、距離を取る。アーダンの宿す<重槍の紋章>が目に入る。 私は剣を抜き、深く息を吸った。 強くなる。王子を守るために。──今度こそ、失わないために。「行くぞ」 最初に踏み込んだのはアーダンだった。速い。
医務室へ向かう途中、人気のない回廊に入ったところでフリーダは足を止めた。 そして、私の腕をぐいと引っ張って壁際に寄せる。「医務室なんて行かないわよ」「……わかってる。助けてくれてありがとう」「別にいいけど、あんた対策とか考えてなかったの? 王子に勘づかれたらどうする、とか」 私は小さく息を吐いた。胸の奥がずっと重い。「考えてなかった。死に戻りなんてわからないだろ。でも、私王
翌朝、早朝も早朝の王宮の中庭。王宮全体がまだ動き出す前のまだ朝露の残る芝の上に、私はマリク王子とともに向かった。「気が乗ってなさそうですね、王子」 私が声をかけると、王子は振り向いて苦笑した。「太陽の紋章を受け継いだとはいえ、争いは苦手だよ。使いこなせるかどうか……」「王子……」 いつになく弱気な王子。共感するべきか激励すべきか悩んでいたところへ、背後から朝にしてはうるさい声が響く。「おはようございます! 王子!」 振り向かなくてもわかる、フリーダだ。 そっと息を吐いていると、気楽な足取りで歩いてきたフリーダは王子の前に立った。「王子、今日は付きっきりで、手取り足取り紋章の使い方を教えてさしあげます」 む……。「フリーダ。頼むよ。君になら安心して任せられる」 私は王子の前に立った。「待ってください。紋章を教えるのに手取り足取り使う必要はありません。王子……気を付けてください」 王子は不思議そうに私を見る。フリーダがふふっとおかしそうに笑った。「秘書官さん。比喩よ比喩。……気を付けてって何を想像したのかしら?」 頬が熱くなる。「そ、それは!! な、なんでもない」「大丈夫だよ。ティナ。ケガをしたりはしないから」 王子の手が私の肩に触れて、私はなにも言えなくなってしまった。